大阪歴史博物館 常設展示その1(10階、9階)
日曜日にぽーさんと大阪歴史博物館に出かけました。
実は『浮世絵ねこの世界展』という特別展示を見に来たのですが、私もぽーさんも、大阪歴史博物館へは初めて行くので、常設展も見ようということになったのですが、結果的に常設展示だけで3時間以上も費やすことに…。いや、興味深く、面白かったです。
いざ!大阪歴史博物館へ
地下鉄の谷町4丁目で降りて、てくてくと歩いて行くと、ほどなく立派な建物が。
「あれかなぁ?」とぽーさんに尋ねると
「いや、あれはNHK、その向こう。」
NHKの建物を通り過ぎると、ありました!
歴史博物館!こちらも立派な建物です。
なぜだか歴史博物館とNHKは謎の球体で繋がっているのでした。
中に入るとこんなカンジ。
おお、目的の浮世絵ねこの世界展の看板が。
博物館の中は、7階から10階が常設展示で、6階が特別展示です。中に入るとエレベーターで一気に10階の常設展示へ。
常設展示は『都市おおさかの歩み』となっていて、
10階は『難波宮の時代』
9階は『大坂本願寺の時代/天下の台所の時代』
8階は『歴史を掘る』
7階は『大大阪の時代』となっています。
10階 奈良時代の難波宮大極殿へ
10階は古代のフロア。そこには奈良時代の難波宮(なにわのみや)の大極殿が原寸大に復元されています。朱塗りの柱は直径70㎝。
この階の窓からは、難波宮の跡地が見えます。そして大阪城も。
写真の左の方に見える白い四角い建造物が大極殿の跡を復元したものです。
こちらは大阪城。
フロアをめぐると難波宮の模型も。
こちらが前期難波宮。ちょっと掘っ立て小屋感あります。
これが後期難波宮。立派になってますね。
難波宮は日本書紀には載っているけど、それがどこかはわからなかった宮でした。
大正2年に大阪城外堀南で奈良時代のものと見られる数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が発見されて、山根徳太郎という人が注目、しかし、陸軍用地だったために調査することができず、第2次大戦が終わって、ようやく調査を始めることができました。
昭和33年には奈良時代より古いとみられる柱列跡が見つかり、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになりました。
つまり、朱鳥元年686年正月「難波の宮室が全焼した」という日本書紀の記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと考えられるとし、昭和35年にこれが回廊であることを確認して前期難波宮とし、その後昭和36年に、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され(後期難波宮)その存在が確認されたのだそうです。
平城京とか平安京とかしか知らなかった私はちょっと驚きました。大阪にも立派な都があったんですね。
エスカレーターで下の階へ降りる途中の踊り場には大きな窓があって、難波宮の跡地も、大阪城もよく見えます。降りていくにしたがって、だんだんと大阪城がよく見えるようになって面白いです。
9階 ぐるっと浪花まちめぐりが楽しい
さて9階は中世、近世のフロアになっています。
入ってすぐに、信長時代の本願寺(石山本願寺)や、街並み、暮らしの様子の模型があります。
小さな人形もちゃんといて、謎の南蛮人とか、
お寺へお参りする人々、
お寺の中で話を聞く人々も再現されています。石山本願寺は信長とかなり戦ったようですから、その相談をしていたのかもしれませんね。
江戸時代のフロアには水の都大阪の景色が広がっています。橋の上には人の姿も。
壁には大阪の旧跡が。文楽人形の浪花屋寅之助が江戸時代の大阪を案内してくれます。
安治川は淀川から大阪湾へ流れ込んでいる川です。全国からいろんな品々が船で運ばれてきたのですね。
現在の福島区野田の藤です。江戸時代には「吉野の桜」「高雄の紅葉」とともに三大名所と言われ、野田の藤見物が盛んでしたが、空襲などで一度は廃れかけていたのですが、今また、地元の人々が復活させようとがんばっていらっしゃるようです。私が大阪に来た頃よりも増えているなぁと実感します。花の時期には福島区のあちらこちらで見ることができます。
逆櫓の松(さかろのまつ)とは、これも今の福島区付近にあったとされる老松のことで、源平合戦において、この老松の下で源義経と梶原景時が論争したらしいですが、今は跡の碑があるだけになっています。
浦江聖天本堂に十一面観世音菩薩(大聖歓喜天)を安置されています。この十一面観世音菩薩は浦江がまだ海岸だった折、漁師の網にかかって海中から出現したと伝えられています。 現在も福島の『売れても占い商店街「福島聖天通商店街」』を参道として「聖天さん」として親しまれています。
これは「ざこばうおいち」と読みます。大阪最大の魚市場です。大坂の古い魚市場で現在の大阪市西区になります。明応に石山本願寺建立の時にできたと言われています。一切の雑魚(ざこ)を扱うところから雑魚場と呼ばれたのが名称の由来。大阪中央卸売市場が設立された昭和初期まで存続ということですから、さすが歴史の町大阪ですね。
天満の青物市 大阪市北区にあった野菜や果物、乾物を扱う市場。江戸時代、堂島の米市、雑喉場魚市と並んで大阪三大市場のひとつ。
露天神社(つゆのてんじんしゃ)元禄16年にに堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた。一月後近松門左衛門はこの二人の悲恋を人形浄瑠璃『曽根崎心中』として発表したところ、神社は一躍有名に。「お初」の名前から「お初天神」と通称されています。
この神社の境内に久留米藩の蔵屋敷にあった水天宮が祀られています。
住吉大社。太鼓橋が描かれています。住吉大社には今も太鼓橋がありますよ。 絵を見ると砂浜のようですね。本当に海がすぐそばだったんですね。
堂島の米市。中之島や土佐堀、堂島には諸藩の蔵屋敷が立ち並んで、米の取引が行われていました。
これは広島藩の蔵屋敷の模型。
中之島にあった広島藩の蔵屋敷ですね。手前が堂島川です。川沿いで荷の受け降ろしをしていたのかと思っていたら、川を敷地に引き込んでいたんですね。なんと、中には鳥居まで。広島藩は厳島神社をお祀りしていたのですね。
これは住友銅吹所の模型。
この展示は住友グループ各社の協力によるものだと書いてあります。さすが、元財閥住友さんです。
お屋敷と銅吹所(工場)の中で働く人々も、生き生きしています。
これは久留米藩の蔵屋敷の様子を描いたもの。屏風になっています。
「水天宮」、「蛸の松」もありますね。
国元の神社をお祀りする蔵屋敷もありました。祭礼の際には町人にも屋敷を開放したりしたそうです。この絵にも詰めかける人々が描かれています。久留米藩は水天宮をお祀りしていたようです。水天宮の総本宮は福岡県久留米市にあり安産、水難除けにご利益があります。現在、露天神社にある水天宮はこの久留米藩が蔵屋敷内にお祀りしていた水天宮です。久留米藩蔵屋敷から露天神に祀られるようになるまでに、いろいろあったようです。この話はまたの機会に。
久留米藩と西隣の広島藩の蔵屋敷の間には松の木があり、枝ぶりが長く、タコの足のように見えることから「蛸の松」と呼ばれ市中の名木として知られていました。
これが現在の蛸の松。明治44年に一度枯れてしまって、新たに近くの別の場所に護岸工事の一環として平成16年に植えられました。
これは文楽人形。
芝居小屋の模型。
小屋の表では人寄せでしょうか?幟もたって賑やかそうです。
これは大阪の船場の町の様子の大きな模型。
瓦の一枚一枚、障子や畳、庭の植え込み、堀の中の浮草など、細かいところも作りこまれていて、見ていて飽きません。
船場の町のジオラマ模型のなかでは、猫もちゃんとそこかしこに居て、猫探しもできます。ジオラマは大きくて、よく作りこまれているので、なかなか難しいですよ。
個人的にはこのフロアが一番楽しかったです。
常設展はまだまだ続きます。また、エスカレーターを降りて8階へ向かいます。
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