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大阪暮らし ぼちぼちいこか

大阪に住み始めて7年めのきーちゃんが綴る大阪での日々のことあれこれです。

他人のふり見て我がふり直せ

 お、オソロシイ・・・

 突然の介護始まりから、ようやく最近落ち着いてきて、なんとか余裕が出て来た。

家のことも、自分のこともほったらかしになっていたことに手をつけよう。

 ケアマネさんも、私が往復3時間近くかけてお義母さんのところへ通っているので(時間も交通費もバカにならない)、なんとか月1回くらいで済むところを目標にしましょうとおっしゃってくれて、今現在は2週間に1回通うところまでになりました。

 もちろん、ヘルパーさんに週2回入ってもらって、ぽーさんは心配なのか、自ら当分は週1回様子を見に行くと言ってくれて、着実に私は楽になっています。

 この約4か月、振り回されつつも、電車で往復2時間の座ってるだけの考える時間がありました。

いろんなブログを読んだり、本を読んだり、あれこれ考えたりとしていました。

 他所のブログが更新されているのを見て、更新できてないなぁと焦ったりもしました。

 介護のブログを読んで、アァ同じだぁと共感したり、参考にしたり、勉強になったりしました。

 そして、お義母さんの介護をしていて、ヤバイ!と思った。それは日に日に心の中で膨らんで行って、仕事のことよりも、ブログの更新よりも、家のことより一番に手をつけなくちゃいけない!と思った。

 

それは・・・

私たち、なんだかよく似ている・・・。

よく似た二人の女性、一人はお義母さん、もう一人はきーちゃん、向かい合って立っている

 ヘアスタイルも体型も、着ているものまで似ている・・・。

 お義母さんは、自分に似合う髪型はこれなの♡と言って肩くらいまでのボブだ。

私はショートだった髪が伸びっぱなしになって、自分で切ったので、肩くらいまでのボブになっている。

 服装は体型を隠そうとズドーンとしたワンピースやウェストがゆるゆるの物が多い。

色も黒や茶、グレーなど地味目のチョイス。

 そして化粧っけは無い。

 Y A B A I

 みなさんはスーパーやデパートなんかで壁面に貼られた鏡を見て、ギョッとしたことはありませんか?

 買った商品を袋詰めしていたり、ウィンドウショッピングを楽しんでいるときに、不意に視界に入って来るおばちゃん。体形はずんぐり、背中は丸く、着ている服は古びてくたびれているし、ノーメイクで髪の毛も手入れされているとは言い難いおばちゃん。誰?だれ?美魔女もマダムも一切関係なさそうな・・・

 そ・れ・は・わ・た・し!

 おそらく、家で鏡を見ているときは脳がきっと何らかの補正をしているのだろう。まぁ、まだいけるんじゃない?とか思うのだが、全くの不意打ちで自分を客観的に見てしまうと、驚愕と絶望の淵に投げ込まれるのだ。

 お義母さんの姿にこれは私の姿だと思ってしまった。

 

どうしてこうなった

 人生なんて思うようにならないことがほとんどだが、若いころに考えていた自分の姿とあまりにもかけ離れたところにいる自分に気がついてしまった。

 どうしてこうなった?結婚して子供育てて、離婚して苦労したから?再婚してからも、ややモラハラ感のあったぽーさんの顔色を伺ってばかりで、自分のことに構うヒマがなかった?

 

 電車の中でたっぷりの時間で考えてみた。

 

違う。結婚したことでも、子育てのせいでもない、人のせいじゃない。

 

 ぽーさんは再婚した当初

「あなたはどうしたいの?」

と聞いてきた。

そう、私はどうしたいのか。

「合わせる」

そればかりを選択してきた結果、私がそれでいいと思ったように、自分で選んできたことなのではないだろうか。

その結果が今の自分なんだと気がついた。

 結婚して夫を優先したい、だから自分のことはどうでもいい。

子育てを優先したい、だから自分のことはどうでもいい。

離婚して、子どもを守りたい、だから自分のことはどうでもいい。

再婚してぽーさんを優先したい、だから自分のことはどうでもいい。

仕事を優先したい、だから自分のことはどうでもいい。

家事をしなくちゃ、だから自分のことはどうでもいい。

・・・本当は自分のこと、どうでもいいなんて思ってなかったのに、言い訳や、他人のせいにして、「自分」から逃げていたのかもしれない。

「自分」を優先するのはシンドイから。責任が生じるから。周りを優先することで、いいひとに思われたいから。

良い人、良い母になることで、なれてなくても、そう装うことで、「自分」を持つこと、「自分で決定する」ことから逃げていたのだ。

「自立」できていなかった。

 

お義母さんより重症?

 介護の勉強をしているときに「自立」にはいろんな「自立」があると習った。

 経済的自立、社会的自立、身体的自立、精神的自立・・・もう他に何があったか思い出せないが、とにかく、私は自分で自分の望むことを決定できない人間だったのだ。

 人生の主人公として、自分の人生を決定するには責任がともなう。その責任を持つことが怖かったのだ。だから楽な方へ逃げてばかりだったのだ。

 

 認知症の人の症状に「取り繕い」というものがある。

自分ができなかったこと、失敗したことの「言い訳」なのだが、まさに私も「取り繕い」のオンパレードだ。すでに私は認知症なのか?

 私の言い訳は「前の夫が」「子どもが」「仕事が」「離婚が」「ぽーさんが」、つい最近は「お義母さんが」だ。

 お義母さんは「あの人が家を覗くから」「一人暮らしだから」「みんな引っ越してしまったから」「先生がいいって言ったから」と警察沙汰の原因も、料理・洗濯ができていないことも、友達がいないことも、病院へ行っていないことも言い訳のオンパレードだ。

 いや、お義母さんは頭は洗ってなくても白髪は気にして美容院へ行っているし、服も汚れを指摘してからは自分なりにコーディネートを考えてオシャレしている。マニキュアだって、親指と小指だけだが塗っている。

 そういう意味では、私の方がお義母さんより重症かもしれない。お義母さんは「自分」のしたいように、「自分」のしたいことをしているのだ。

 私はといえば、人の目を気にして(誰も見てないのだが)清潔でさえあればいい、ちゃんと年相応にしてればいいと、オシャレを楽しむことは罪とばかりに、地味な方へ、目立たぬ方へと生きている。結果、自分に自信が持てない。自信が持てないから決定することができない。

 こうしてさらに自立から遠ざかってしまう。

卵が先か、ニワトリが先かのもう、どっちが先でどっちが結果かなんてわからないループにはまってしまっている。

 

 でも、気づいてしまったからには、もう今までのように逃げるわけにはいかない。

今、見て見ぬふりをしてしまうと、私はもう一生自立できないだろう。

 

逃げ出せ逃げ出せ

 はまってしまっている負のループから脱出しなければならない。このままだと死ぬときにこんなハズの人生じゃなかった!と後悔すること必至だ。

 まず、問題点に気づいたのだから、ひとつずつ直していけばいい。

 この記事のタイトル「他人のふりみて我がふり直せ」は、往々にして他人の悪いところが自分にないか、あったら直しなさいという意味に使われるが、私は他人の良いところを真似しようと思う。

 昭和の女性の教育を受けて来た私は、良い女性って良妻賢母で、夫に尽くし、子どもに尽くし・・・それが幸せで女の生きる道的な価値観で育ってきた。

 実際、高校の先生に進路相談したときに「善いお母さんになって家庭を守るという選択肢もいいんじゃないの」と言われた。

 結果、結婚して専業主婦で離婚したら、自分には何にも残っていなかった。もちろん、素晴らしい、愛すべき子どもらには恵まれたが、それは子どもの人生で、私個人としては、慰謝料ももらわず、年金分割もしなかったので、私自身には何にも残らなかった。

 一生懸命子育てして家事しても、職歴なし、報酬ゼロ。むなしい。

 ほんとはオシャレしたい、好き勝手したいと思っているのに、善い人に見られたい、責任はとりたくない、という下心で「全て周りに合わせます」という行動の結果、残ったものは虚しさ。

 あ、でもこれも自分で選んだことだから「自立」してたと言えばしてたのかもしれない。

 

 ここからはぽーさんのいう

「自分はどうしたいの」

これを唱えながら、私なりの「自立」を目指していきたい。

「自分のどうしたい」を実現するためにはどうすればいいのか。

たぶん、実現するためには責任を負わなくてはいけないし、努力も苦労も必要だろうけど、どこまで頑張れるのか、ちょっとずつ頑張ってみようと思う。死ぬときに「あー楽しい、オモシロイ人生だった」と思えるように。

  今からでも若いころに思ってた「なりたい自分」を目指してみようと思う。

 自分のダメなところに気がついただけでも自立の一歩かもしれない。

気づかせてくれて、

ありがとうお義母さん

ありがとうぽーさん