きのこマンガまとめ2
きのこマンガを描いてた時に、きのこのこといろいろ調べてた。いろんな種類のきのこがあっておもしろい。
毒のある、食べれないきのこはとてもキレイな姿をしている。なんでだろう。きれいだと逆に採りたくなるよね。食べて欲しいのかなぁ?そうなるときのこってアサシン?こえ~。
地味な見た目でも毒のあるきのこもあるので、キノコ狩りは素人判断せずに、気をつけて。
ではドゾ
げんきノコマンガ11~21
おあとがよろしいようで・チャンチャン
きのこマンガまとめ1
しばらく前に、ツイッターにきのこマンガをあげていました。
去年の秋ぐらいだったかなぁ。
読み返そうと思ったけど、まとめてないのでいちいちファイルを開けなければならなかったので、ここにまとめておこうと思う。21話あるので、ダラダラと長くなりそうなので10話と11話に2回に分けることにした。
なんとなく描きだしたけど、4コマって難しい。5コマにしたりして、何とかしのいでる。A4サイズの紙縦半分に納まるように描いてた。
また、そろそろなんか描きたい病が出てきた。
それではドゾ
げんきノコ マンガ 1~10
介護のはなし3 デイサービス見学
初めてのデイサービス見学
介護保険の認定もおりて、ケアマネさんも決まって、ひとまず、ヘルパーさんにも入ってもらうことが決まって、デイサービスにも行けたらいいねということで支援センターの人が紹介してくれたデイサービスを見学に行くことにになりました。
お義母さんはものすごく用心深い。知らない人は玄関でシャットアウトだ。
そしてお金がかかることは嫌い。これは後で気がついたが節約とかではないのだ。お義母さんが欲しいものに関しては浪費傾向だ。でも、デイサービスに通うお金は払いたくないと思う。
自分が高齢者だとはこれっぽっちも思っていないから、お年寄りが通うデイサービスに自分が行く必要はないと思っている。お義父さんをデイサービスに行かせていたけれど「あんな年寄りの行くところ!私は行かないわよ」という認識だ。
見学に行くにあたって、デイに行きたくないお義母さんと、後々のことを考えて、行って慣れておいて欲しいと思う周囲の気持ちは、当然合わないので、お庭のお花のアドバイスをするという名目で行ってもらうことにした。
そして「あなたもついてきてね」と言うお義母さんの希望で、私も同行することになった。
お義母さんはお花が好きで庭仕事は得意だと、本人は思っているが、現実にはお花がスキというより、お花が好きなあたくしがスキ!みたいに思える。
本当は庭仕事が好きだったのかもしれないが昔のお義母さんのことを知らないので、今現在、その行動を5月から今まで見てきた限り、庭仕事がスキそうには思えない。
まぁ、本人がそれで納得できたなら、とりあえず今回は見学だし、そこから徐々に慣れてもらえればいいと思った。
プロのお仕事
施設は新しくてとてもキレイだった。ここでデイの楽しい印象が残れば、また行きたい、行こうかなという気持ちになってくれるかもしれない。
ぐるっと説明を受けて、けっこうお義母さんも楽しそうだった。ここまでは良かった。お庭に置いてあったガーデンテーブルとイスもとても気に入って、「これちょうだい!」と言うくらいだった。
が、30分くらいたっただろうか、施設の人が私にこそっと近寄ってきて「帰ってください」と言う。
「え?大丈夫ですか?義母は私に一緒に居てねと言っていましたけど」
「大丈夫です!私たちは介護のプロです!まかせてください」
「?え?本当に何も言わずに帰っても大丈夫なんですか?」
「私たちは介護のプロですから!大丈夫です」
「プロ」にそう言われては「家族」の立場で、しかも実務者研修までしか受けてない、介護福祉士も持ってない、最近知りあった嫁の立場では言われるままに帰るしかない。
こっそりと帰った。
そして不安は的中した。
その日にデイの責任者から電話をもらったが、途中で帰りたいとおっしゃったので靴を隠しましたとの報告を受けた。デイの感想はお義母さんに電話で確認してほしいと言う。
あれ?電話で?・・・お義母さんめっちゃ耳遠いんですけど。電話なんか全然使えないんですけど。
一日介護していたら気づくよね?あれ?どうしたプロ。利用者の情報っていってないのかな?
靴を隠すのは「拘束」にはならないの?教えてプロ。別に責めてるわけじゃないし、しょうがないと思うよ。足腰達者な認知症の高齢者だと職員の手をとられてしまうから、外に出ないように、勝手に帰らないように、靴隠しはしょうがないよね。ずっと一人に付き添っていたら仕事回らないものね。気持ちはわかるよ。だけどね・・・。
モヤモヤしたけど何も言えなかった。
私が勤めていたデイでは見学は家族さんも一緒で、希望すれば家族さん分のご飯もおやつも準備していた(もちろん実費だが)。だって、家族さんが一緒に一部始終見学しても何も困ることはないし、たった一人きりでは初めての利用者さんは不安だろうし、職員もおおよその情報は知っていても実際の様子を見て知ることは大事だ。だからお風呂こそ入らないけど、一日まるまる見学してもらえる。施設の考え方はそれぞれだけど、あのデイは何か見られて困ることでもあるのだろうか。
いろいろなことを呑みこんで、お義母さんの耳が遠くて、電話が使えないことを伝えて、明日行ってみますと答えた。
激おこお義母さんと反省
嫌な予感がしながら、翌日お義母さんのところへ行った。
・・・激怒していた。
「なんで帰った!?」
「どうして帰った!?」
警察騒ぎからここまで築いた新嫁の信頼ガラガラガッシャーン!と崩れた。
「施設の人に帰って下さいって言われたから、帰ったよ」
「あそこの人たちは私の靴を隠しておきながら、知りませんって言ったのよ!帰る時間になったらしれ~っと靴持ってきたのよ!どうして帰った!?」
「家族さんはお帰り下さいって言われたから、それよりお昼ごはんは美味しかった?」
話をそらしながら、お義母さんの怒りをやり過ごすしかなかった。
お義母さんは認知症だろうと思われるけど、面接した市の人も「まだらかなぁ?」と言ったように全面的にわからなくなってたり、短期記憶が全然働かないわけではない。
ごめんね、お義母さん。不安だったよね。知らないところに突然一人にしてしまって。お義母さんが怒るのはわかる。「プロ」の意見なんか振り切ってしまえばよかった。介護についての考え方は人それぞれだと思うけど、「プロ」さんの介護のやり方には不信感。
どうせ、わからないだろうと、忘れてしまうだろうと安易に考えてる気がしてならない。
もう少し、私の考えを強く言ってもよかったのかもしれない。ちゃんと言えなかった自分も悪いのだ。もうしばらく一緒にいて、お義母さんに納得してもらって帰ればよかった。これは大反省。
「プロ」だと押し切る態度に、「じゃあ、やってみれば」という気持ちもあったと思う。
でも、お義母さんの気持ちを考えるなら、そこで引かずに、「盾」にならなければいけなかったと思う。ごめんねお義母さん。
次の日、土曜日だったので再び、ぽーさんと一緒にお義母さんのところへ。
「どうして帰った!?」
「職員さんが帰れって言ったから帰りました。それよりお義母さん、七夕の短冊書いたんですか?」
「私は監督してただけ」
「そうですか、立派な笹飾りでしたね~」
再びなんで帰った攻撃を別の話題でかわしながら、施設であったであろうレクレーションの話を聞いてみたりした。
ぽーさんには事の次第を話してあるので横で苦笑い。
お義母さんの怒りは相当のようで、これは当分不信感はぬぐえないなと、私も腹が立ってきた。せっかくコツコツ築いた信頼関係どうしてくれるんじゃーい!
嫌なことがあった感情って、細かいことは忘れてもなんとなくモヤモヤと残るものだと思う。
きっとお義母さんの心の中には「デイサービス」に対して負の感情が残ってしまったと思う。
難しくなりそうだと思う。これからもっと介護の手を借りなくてはならなくなった時までに、全てをさっぱり忘れてくれていることを願う。
他人のふり見て我がふり直せ
お、オソロシイ・・・
突然の介護始まりから、ようやく最近落ち着いてきて、なんとか余裕が出て来た。
家のことも、自分のこともほったらかしになっていたことに手をつけよう。
ケアマネさんも、私が往復3時間近くかけてお義母さんのところへ通っているので(時間も交通費もバカにならない)、なんとか月1回くらいで済むところを目標にしましょうとおっしゃってくれて、今現在は2週間に1回通うところまでになりました。
もちろん、ヘルパーさんに週2回入ってもらって、ぽーさんは心配なのか、自ら当分は週1回様子を見に行くと言ってくれて、着実に私は楽になっています。
この約4か月、振り回されつつも、電車で往復2時間の座ってるだけの考える時間がありました。
いろんなブログを読んだり、本を読んだり、あれこれ考えたりとしていました。
他所のブログが更新されているのを見て、更新できてないなぁと焦ったりもしました。
介護のブログを読んで、アァ同じだぁと共感したり、参考にしたり、勉強になったりしました。
そして、お義母さんの介護をしていて、ヤバイ!と思った。それは日に日に心の中で膨らんで行って、仕事のことよりも、ブログの更新よりも、家のことより一番に手をつけなくちゃいけない!と思った。
それは・・・
私たち、なんだかよく似ている・・・。
ヘアスタイルも体型も、着ているものまで似ている・・・。
お義母さんは、自分に似合う髪型はこれなの♡と言って肩くらいまでのボブだ。
私はショートだった髪が伸びっぱなしになって、自分で切ったので、肩くらいまでのボブになっている。
服装は体型を隠そうとズドーンとしたワンピースやウェストがゆるゆるの物が多い。
色も黒や茶、グレーなど地味目のチョイス。
そして化粧っけは無い。
Y A B A I
みなさんはスーパーやデパートなんかで壁面に貼られた鏡を見て、ギョッとしたことはありませんか?
買った商品を袋詰めしていたり、ウィンドウショッピングを楽しんでいるときに、不意に視界に入って来るおばちゃん。体形はずんぐり、背中は丸く、着ている服は古びてくたびれているし、ノーメイクで髪の毛も手入れされているとは言い難いおばちゃん。誰?だれ?美魔女もマダムも一切関係なさそうな・・・
そ・れ・は・わ・た・し!
おそらく、家で鏡を見ているときは脳がきっと何らかの補正をしているのだろう。まぁ、まだいけるんじゃない?とか思うのだが、全くの不意打ちで自分を客観的に見てしまうと、驚愕と絶望の淵に投げ込まれるのだ。
お義母さんの姿にこれは私の姿だと思ってしまった。
どうしてこうなった
人生なんて思うようにならないことがほとんどだが、若いころに考えていた自分の姿とあまりにもかけ離れたところにいる自分に気がついてしまった。
どうしてこうなった?結婚して子供育てて、離婚して苦労したから?再婚してからも、ややモラハラ感のあったぽーさんの顔色を伺ってばかりで、自分のことに構うヒマがなかった?
電車の中でたっぷりの時間で考えてみた。
違う。結婚したことでも、子育てのせいでもない、人のせいじゃない。
ぽーさんは再婚した当初
「あなたはどうしたいの?」
と聞いてきた。
そう、私はどうしたいのか。
「合わせる」
そればかりを選択してきた結果、私がそれでいいと思ったように、自分で選んできたことなのではないだろうか。
その結果が今の自分なんだと気がついた。
結婚して夫を優先したい、だから自分のことはどうでもいい。
子育てを優先したい、だから自分のことはどうでもいい。
離婚して、子どもを守りたい、だから自分のことはどうでもいい。
再婚してぽーさんを優先したい、だから自分のことはどうでもいい。
仕事を優先したい、だから自分のことはどうでもいい。
家事をしなくちゃ、だから自分のことはどうでもいい。
・・・本当は自分のこと、どうでもいいなんて思ってなかったのに、言い訳や、他人のせいにして、「自分」から逃げていたのかもしれない。
「自分」を優先するのはシンドイから。責任が生じるから。周りを優先することで、いいひとに思われたいから。
良い人、良い母になることで、なれてなくても、そう装うことで、「自分」を持つこと、「自分で決定する」ことから逃げていたのだ。
「自立」できていなかった。
お義母さんより重症?
介護の勉強をしているときに「自立」にはいろんな「自立」があると習った。
経済的自立、社会的自立、身体的自立、精神的自立・・・もう他に何があったか思い出せないが、とにかく、私は自分で自分の望むことを決定できない人間だったのだ。
人生の主人公として、自分の人生を決定するには責任がともなう。その責任を持つことが怖かったのだ。だから楽な方へ逃げてばかりだったのだ。
認知症の人の症状に「取り繕い」というものがある。
自分ができなかったこと、失敗したことの「言い訳」なのだが、まさに私も「取り繕い」のオンパレードだ。すでに私は認知症なのか?
私の言い訳は「前の夫が」「子どもが」「仕事が」「離婚が」「ぽーさんが」、つい最近は「お義母さんが」だ。
お義母さんは「あの人が家を覗くから」「一人暮らしだから」「みんな引っ越してしまったから」「先生がいいって言ったから」と警察沙汰の原因も、料理・洗濯ができていないことも、友達がいないことも、病院へ行っていないことも言い訳のオンパレードだ。
いや、お義母さんは頭は洗ってなくても白髪は気にして美容院へ行っているし、服も汚れを指摘してからは自分なりにコーディネートを考えてオシャレしている。マニキュアだって、親指と小指だけだが塗っている。
そういう意味では、私の方がお義母さんより重症かもしれない。お義母さんは「自分」のしたいように、「自分」のしたいことをしているのだ。
私はといえば、人の目を気にして(誰も見てないのだが)清潔でさえあればいい、ちゃんと年相応にしてればいいと、オシャレを楽しむことは罪とばかりに、地味な方へ、目立たぬ方へと生きている。結果、自分に自信が持てない。自信が持てないから決定することができない。
こうしてさらに自立から遠ざかってしまう。
卵が先か、ニワトリが先かのもう、どっちが先でどっちが結果かなんてわからないループにはまってしまっている。
でも、気づいてしまったからには、もう今までのように逃げるわけにはいかない。
今、見て見ぬふりをしてしまうと、私はもう一生自立できないだろう。
逃げ出せ逃げ出せ
はまってしまっている負のループから脱出しなければならない。このままだと死ぬときにこんなハズの人生じゃなかった!と後悔すること必至だ。
まず、問題点に気づいたのだから、ひとつずつ直していけばいい。
この記事のタイトル「他人のふりみて我がふり直せ」は、往々にして他人の悪いところが自分にないか、あったら直しなさいという意味に使われるが、私は他人の良いところを真似しようと思う。
昭和の女性の教育を受けて来た私は、良い女性って良妻賢母で、夫に尽くし、子どもに尽くし・・・それが幸せで女の生きる道的な価値観で育ってきた。
実際、高校の先生に進路相談したときに「善いお母さんになって家庭を守るという選択肢もいいんじゃないの」と言われた。
結果、結婚して専業主婦で離婚したら、自分には何にも残っていなかった。もちろん、素晴らしい、愛すべき子どもらには恵まれたが、それは子どもの人生で、私個人としては、慰謝料ももらわず、年金分割もしなかったので、私自身には何にも残らなかった。
一生懸命子育てして家事しても、職歴なし、報酬ゼロ。むなしい。
ほんとはオシャレしたい、好き勝手したいと思っているのに、善い人に見られたい、責任はとりたくない、という下心で「全て周りに合わせます」という行動の結果、残ったものは虚しさ。
あ、でもこれも自分で選んだことだから「自立」してたと言えばしてたのかもしれない。
ここからはぽーさんのいう
「自分はどうしたいの」
これを唱えながら、私なりの「自立」を目指していきたい。
「自分のどうしたい」を実現するためにはどうすればいいのか。
たぶん、実現するためには責任を負わなくてはいけないし、努力も苦労も必要だろうけど、どこまで頑張れるのか、ちょっとずつ頑張ってみようと思う。死ぬときに「あー楽しい、オモシロイ人生だった」と思えるように。
今からでも若いころに思ってた「なりたい自分」を目指してみようと思う。
自分のダメなところに気がついただけでも自立の一歩かもしれない。
気づかせてくれて、
ありがとうお義母さん
ありがとうぽーさん
介護のはなし2 どうすればいいのか悩みつつ動く
なぜだか離婚話
約1週間が経って、明日包括支援センターのひとが来てくれる前の夜、仕事から帰って来たぽーさんにその日のお義母さんのことを報告していると、何が彼を怒らせたのか、突然「離婚する!」と言われた。そして「所詮、他人事!」と言われた。「自分が仕事を辞めて介護する!」と。
きょとんとしていると、プンプンしながら寝室へ行ってしまった。
怒りが、ふつふつと沸いてきた。
誰が怒鳴られまくって、ぺこぺこと頭下げて、身元引受にサインと押印してきたと思ってるんだ!
誰が爪水虫の足の爪切ったと!と。
誰が自分の仕事探しほっぽって、様子を見に行ってると思ってるんだ!
「所詮、他人事」と言われたことに腹が立って、腹がたってしょうがなかった。そして同時に、わかったよ!離婚してやるよ!と離婚してからのことを算段し始めた。
でも、お義母さんのことや、ぽーさん親子のこれからのことを考えると、もうしばらく、介護のめどがたってからの方がいいだろうとも思った。
介護認定してもらって、介護計画とか立ててもらって、ぽーさんが一人で介護に困らないようにしてから離婚、が私なりの恩返しかとも思った。
それは何といっても、ぽーさんには息子や娘のことでずいぶん世話になったから。私たちは再婚同士、私の子どものことは知らんぷりされてもしょうがないのだが、ぽーさんはとても良くしてくれた。
それに、まがりなりにも、私は介護の勉強もしていたから、ぽーさんよりは詳しいから少しはお役にたてるかもと思った。
よくある介護離職からのどん詰まり生活におちいって欲しくなかった。テレビとかでそんな話を耳にするたびに、もっと援助の手は無かったのか?もっと周りに助けを求めていれば…と感じていたから。
そんなことを思ったりしてたのに、いざ、介護の必要な人が出たら、ささいな言動に腹を立てて、じゃあねっ!とほっぽりだすのか?そんなことはできない、と謎の正義感にかられてしまった。
包括支援センターとの面談
2~3日後、包括支援センターのひとが来てくれて、ぽーさんも一緒に面談した。
私たちが離婚予定ということは黙っておくことになった。
包括支援センターの職員さんにこれまでの経緯を話して、なるほど、それではできるだけ早く手続きを進めましょうということになった。
お義母さんは頭髪こそべったりと汚れた感じはするが、受け答えはそつない感じでこなしていく。耳は遠いが、買い物も少し距離のあるスーパーまで行くし、料理も自分でしているという。ごはんは炊いて、残れば冷凍しているというし、健康のために野菜も毎日食べているという。朝はプチトマトに黄粉牛乳を飲んでいるという。
お風呂は毎日シャワーを浴びていてる、一人暮らしだから洗濯は3日に一回という・・・。私がお義母さんから聞いている内容と同じ。
散らかっていない部屋を見て、この話を普通に聞いていれば、全然普通の生活ができているように思えるが、実際は炊飯器は見当たらない、ぽーさんが以前持って行ったお米の袋は未開封のまま(この時初めてお米が手つかずなのにぽーさんは気づいたよう)、冷蔵庫はのぞかせてくれないし、洗面所にも入るなという。洗濯も干されてるのを私が知る限りでは一度もない。
そういった私の観察からの補足がなければ、介護なんて必要なく思えるだろう。
だからぽーさんもひょっとしたら、私の報告を信じていなかったのかもしれない。ぽーさんは月に1回お義母さんのところへ通っていたけど、出かけてから帰るまでの時間を考えると、やはり、10分程度とかで会話もほとんどなかったのではなかろうか。
男の人だし、流しのドロドロ具合も気づいてなかったのかもしれない。
しかし、話が息子のぽーさんのことになったときに、ぽーさんが首をかしげる。
ぽーさんもお義母さんの話がおかしいと思ったようだ。ぽーさんは大学を出ているのに、高校卒業して大手企業に採用されたとか、ぽーさん関連のママ友との交流の話とか、事実とは違うことをすらすらと話している。
ぽーさんが支援センターの人に「あの話は違います、勘違いしてるのかなぁ」と伝えると、支援センターのひとはうなづきながら「作話ってやつですね」と言っていた。
やっぱり、息子は認めたくなかったのかな。
ぽーさんに以前、早めに介護認定を受けておけば?と勧めた時に「まだ部屋が片付いているうちは大丈夫!」と言っていた。
たしかに、部屋は片付いている、というか物が無い。包括支援センターの人が生活感があまりありませんねというくらい。
義母は支援センターの人に「お部屋キレイにされてますね」と褒められるとものすごく嬉しそうに「おほほほほ」と笑うのだったが、後にそれは物が無いだけだということがわかったし、料理の話も「作話」の部分が多かった。
たしか、この時点でお義母さんのところへ通い始めて1週間くらいだったと思うけど、私はとりあえず、また警察沙汰になるようなことをしないようにと、そっちにばかり気をとられて、お義母さんの状態を見ていなかった。だから自分がいなくなる夕方から翌朝まで、疲れて寝ていてくれるように、買い物や外出に付き合っていた。
だから、ご飯が本当に炊けているのかとか、お義母さんの言うことを信じて確認はしていなかった。
包括支援センターの人は、次は市役所の人間と来ることになりますと言って帰って行った。
本当のお義母さんはどんなひと?
お義母さんのことを全然知らない私は、お義母さんの話をまるっと信じるしかないところから始まった。
「私は人気者で仲良しの友だちと三人娘と言われてたの。そして、可愛い、可愛いと言われてたの。ここに来てからはみんなが物を借りに来るの」
ぽーさんにお義母さんってどんな人だったの?と聞くけど、帰ってくる返事は知らないばかり。男の人ってそうなのでしょうか?自分の息子のことを考えると親子関係が良くなかったのかなぁ?と勘ぐってしまう。
今のままの性格の人だったとすると、ものすごく嫌な女性だったことになるのだが、どう考えてもそんなわけないように思える。
料理はめんどくさい、食事はガツガツ、お茶はゴブゴブ、部屋を掃除するのにクイックルワイパーで掃くといより蹴散らして、老眼の目で見える大きなゴミを拾って終わり。
コップはドロドロ、スポンジが真っ黒、流しはどろどろ、布巾は真っ黒、換気扇のフィルターは茶色になって油の塊になっている。
道で声をかけてくれた知り合いの人の悪口を言う、お友達付き合いしてるひとはいないようにみえる。
杖やシルバーカーを押しているお年寄りをバカにする。
食事に入ったうどん屋さんで、「これは冷凍うどんよ!」と大声で言う。ここは手打ちうどんのお店ですよ、お義母さん。
スーパーで棚の奥から物を取り出し(賞味期限?)そのまま放置する、品物を指で押す、手に取ったものを投げるように戻す、店員さんに高慢な態度で指示する。
これが自分の親なら怒りもできるが、離婚予定のダンナの母となると怒れない。やんわりと止めてくださいと言うことしかできない。
おそらく、これは認知症の症状なのでは?と思うけれど、診断がおりているわけではないので、それはわからない。
ひとまず、火事になりそうな真っ茶色の換気扇のフィルターを取り換えた。お義母さんはやらなくていい!と言っていたが、火事になったら怖いですから、他人にも迷惑がかかりますからと言って取り換えた。取り換えると「へーっ!へーっ!」とバカにしたように言っていたが、どうやらこの「へーっ!」は気に入らないとか、そんな時に発する言葉のようだ。
そしてドロドロのコップを洗おうとしてスポンジが黒いのに気づいて、新しいスポンジを出してもらった。
「このコップは安物だから、1回使っただけでドロドロになるのよ」と言われるが、お義母さん、私は知っている。コップがこんなになるには2~3日洗ってないから、いや、この状態だと4~5日、いや、もっとかもしれないと心の中でつぶやいていた。
病院へ付き添う
そして、お義母さんに飲んでいる薬の有無を確かめると、有るというし、病院へも通っているという。
包括支援センターのひとが3年前に尋ねて来たのは、病院に来なくなったので病院から連絡が行って安否を確かめることになったからだった。
お義母さんは「病院へは今、お休みしてるのよ」と言う。
「一緒に行きましょう」と言うと、
「予約しないといけないし、一人で行けるから」という。
「先生にご挨拶したいし、私が予約とります。病院はどこですか?」
「知らない。わからない。T先生。」
「今度いっしょに行きましょう」と伝えて、私が予約をとることにした。できれば実の息子も一緒に話を聞いた方がいいと思うので、ぽーさんが行けそうな日を聞こう、どこの病院かもぽーさんに聞いてみるかと思っていると、次の日に、勝手に一人で病院へ行って、ぽーさんの予定も確かめずに勝手に予約を取って来た。
「会いたいと言うから、予約を取って来てあげたわよ」
当然、ぽーさんはそんな突然には有休もとれず、付き添えないということで、嫁がついていくことになった。
そして病院へ付き添っていくと新たな事実がわかった。
病院は勝手にお休みしていたらしいし、薬も勝手に飲んだり飲まなかったりしていたようだ。
そして、病院の先生はお義父さんも担当していたらしい。たまたまお義父さんが徘徊していたところを保護してくれたのに、お義母さんは「ほっといてください!」と言い放ったそうだ。それでほっといたら、その後別のところで警察に保護されたらしい。
お義母さん自身も介護をした人だったのだ。
このころにはお義母さんも落ち着いてきて、最初の1週間に見られたような窓の外をにらんで監視するような行動も見られなくなったので、日参から隔日にお義母さんのところへ行くのを減らすことができるようになっていた。
事が起こったのが5月だから今はもう8月で、今はヘルパーさんが週に2回入ってくれて、私が1回、ぽーさんが1回と、合計週4回は安否確認できている。そうやって、ずいぶん落ち着いてきたからこうしてブログを書けているのだけれど、まだまだ順調に回っているとは言い難く、これからどうなるのかヒヤヒヤな毎日を送っている。
(現在9月半ばで私のお義母さん詣では2週間に1回までになっている)
介護のはなし1 それはある日突然に
前回、お義母さんを介護することになりそうな件を書きましたが、今までのことを忘れないように、備忘録的に書いていきたいと思います。
予兆
ある日曜日、突然ぽーさんがお出かけの準備を始めたので、どこに行くのかと尋ねると、「お金を払わずにレジを通ったらしい」と言います。
???何のことかさっぱりわからず、てっきりぽーさん自身がうっかりしてて、お店の商品を持ってきてしまったとか、思ってしまいました。
「へ?どこで?」
「わからない」
???え?ぽーさん、ボケが始まったの?
どういうこと?と尋ねるとどうやら離れて住んでいるお義母さんのことらしい。
ぽーさんはかなり不機嫌で、出かけて行きました。
お義母さんのこと
お義母さんは電車で1時間くらいのところに住んでいます。お義父さんはもう亡くなられていて、一人で住んでいます。
ぽーさんはそんなお義母さんの様子を見に月に1回通っていました。
私とぽーさんはお互い再婚同士で、再婚してもう7年くらいになりますが、私がお義母さんのところへ行くのは年に2~3回、ぽーさんについて行って、10分くらいの滞在で顔を合わすくらいでした。
それでもお義母さんが最初に会った時より、だんだんと、どんよりしていっているような気がして、最近何度かぽーさんには年齢も年齢なので、一度、介護認定とか受けておいたら?とは勧めていました。ぽーさんは部屋がちゃんと片付いているから大丈夫と言っていました。
私の母はお義母さんより年上ですが、妹家族と住んでいるので、何かあっても傍に人がいます。でもお義母さんにはぽーさんしかいません。しかも行くまでに1時間は余裕でかかる距離です。
私は介護の仕事をしていたことがあるので、いろんな介護サービスがあったりするのを知っていたので、できれば週に1回安否確認とかできれば安心なのに、と思ったからでしたが、息子のぽーさんが要らないと言えばそれまでで、「嫁」という立場で、しかも再婚だし、なんとなく強くは言えずにそのままになっていました。
この呼び出し事件のときも詳しく、何がどうだったのかなど、事のいきさつを聞けずにいました。聞くのが怖かったのかもしれない。
呼ばれて飛び出て
それから3日後くらいでした。
コロナ騒動にまぎれてプー生活を続けていた私に電話がありました。
ふだんはずっとマナーモードにしているので電話がかかったことにすぐには気づきませんでした。昼ごはんを食べるタイミングでスマホを見るとと知らない番号からの着信でした。私に知らない人から電話がかかるのはめったにないので、不審に思いながら番号検索してみると警察からでした。
驚いてかけなおすと、お義母さんの身元引受に来てほしいとのことでした。詳しくは着いてからということで、とりあえず、かけつけました。
どうやらぽーさんの電話にかけたけど、仕事中で出なかったので、私にかけたらしい。どうやって調べたのか謎だけど、そこは警察力なんでしょうね。
大阪に暮らして約7年だけど、お義母さんの住むところらへんとか、大阪市内以外ほとんどよくわからない状態で、まず警察署まで行くのに苦労しました。
警察署で
着くと薄暗い廊下の長椅子にお義母さんが警察官と並んで腰かけていました。帽子を深くかぶっているので表情は見えません。しばらく会っていなかったので、
「お義母さん、わかる?私」と声をかけると不審そうに
「○○(ぽーさんの名前)は?」と聞かれます。
「仕事で来れないから、私が来たの」
そういうとニコニコして「あら~!」といいお返事。
その後お義母さんには別室で待ってもらって、ざっと警察の説明を聞くと、よその家の花を大きな枝切ばさみを持って行って切ったらしい。理由はそのお家の人が自分の家をジロジロ見たかららしいけど、ちょっと離れたお家だったようです。つまり、どうやらお義母さんの勘違いというか被害妄想?だったようでした。
そして、花を切られた被害者さんと対面したけど、相手は怒り心頭。そりゃそうですよね、見てもないのに見たと言われて、一生懸命育てた花をちょん切られたら、そりゃ怒ります。わかります。しかも結構な大きさの枝切ばさみを持っていたので、それは恐怖を感じます。わかります。
で、ぎゃんぎゃん怒られて、私はひたすら、平身低頭謝るしかなかったです。
ただね、頭をなんべんも下げながら、私はお義母さんの息子の配偶者だけど、お義母さんはほぼ知らないひとだよ~と心の中で叫んでいました。
「嫁」という言葉の恐ろしさを感じたよ。そして、「嫁」なら義母に仕えて当然、義母のことをよく知っているという思い込み。
警察も次、こんなことがあったら逮捕ということもありますから、家族さんがしっかり見ていてくれなくちゃと言われました。お世話になっていたんでしょう!と言われましても、全然世話になってませんが・・・ と心の中でつぶやきつつも「はい」と返事を返すしかありませんでした。
身元引受の書類を記入して、帰っていいよということになったけど、どうやってお義母さん宅へ帰っていいのか、道がわからない。そこは警察署、電車の乗り換えを尋ねていると、お義母さんはタクシーで帰ろうとおっしゃる。が、慌てて出てきたので、お財布の中身が心もとないので、いくらくらいかかるのかこれも尋ねて、どうやら足りそうなので近くの駅からタクシーで帰りました。
お義母さんの様子
タクシーを降りて、お義母さんお腹減ったでしょと、コンビニでおにぎりを2個買って、お義母さん宅で食べてもらいながら、ぽーさんからの連絡を待っていました。
お義母さんは「私は悪くない」「女の刑事が来た時に玄関の花(造花)を見てキレイと言った」とかまるで愉快な出来事があったかのようにしゃべります。全然、事の重大さもわかってないし、反省の色もありません。
ウフフ、ウフフと笑い、手を叩く姿を見ていると、明らかに「おかしい」と確信しました。とにかく、疲れてぽーさんからの電話をひたすら待っていました。
仕事が終わって連絡をくれたぽーさんがお義母さん宅へ到着して、事の顛末を話して、枝切ばさみを持って帰ることにしました。
ぽーさんはお義母さんとはほとんど話をせずに「人に迷惑をかけないように、今度こんなことがあればこの家に帰って来れなくなります」とメモに書いて渡していました。
それから電車に乗って、今日の出来事を話しながら帰り、家に帰りついたのは21時をまわっていました。
戸惑い
翌日、お義母さんの様子が不安なので、(何かまたどこかに迷惑をかけることになってはイカン)できるだけ早く、お義母さん宅へ向かいました。
何といっても、「嫁」だけだった立場から「身元引受人」に署名押印しちゃったからね。責任増えてます。
お義母さんはお元気そうで、昨日の警察のこともまるで武勇伝のように語ります。
そして、昨日はドタバタで余裕がなかったけれど、お義母さんを観察すると、おそらく、頭は洗ってない、服も昨日のままで、しかも胸元らへんは汚れているのがわかる(おそらくは食べこぼし?)。
部屋を見回すと、物が少なく片付いて見えるけれど、ほこりが積もっていたり、小さなごみが散らかっている。流しはドロドロの部分がある。部屋の中はどうしたわけか薄暗くて、老眼鏡をかけていないお義母さんにはいろんなものが見えていないのだろうと思われる。しかも耳も遠い。
ぽーさんはお義母さんのことを、私が介護認定を勧めた時に「部屋が片付いているから、まだ大丈夫」と言っていたけど、確かに物が無いので片付いてはいるけど、清潔、不潔でいうと不潔なのだ。
爪も伸びていたので手の爪は自分で切ってもらう。手の指は親指と小指だけ赤いマニキュアが塗ってある。足の指は全部塗ってあるが、ずいぶん切ってなかったのか、かなり伸びている。コンビニで除光液を買ってきて落としてもらう。足の爪は本人が切れないと言うので、私が切らせてもらった。親指の爪がおかしいので尋ねると「爪水虫」だという。病院に行っていたけど、もう治ったと言う。いや、治ってないよね?と言っても聞いてくれない。服は汚れを指摘すると着替えてくれる。
夕方まで過ごして、家に帰り、夜ぽーさんに報告して、介護認定してもらおうと強く提案して、明日、地域包括センターに電話するからね!というと、ゴソゴソと名刺を出してきた。
なんや、これ?と見ると包括センターの人の名刺だった…。
「何?これ?どういうこと?」と聞くと
「3年くらい前に電話がかかってきて、これが(お義母さん宅に)入っていた」
…なんやそれ…3年前、なぜ、その時点で言わなかった。
当時、何かあったから、包括センターへ連絡が行ったんじゃないの?
「突然」じゃなくて「知らぬは私ばかりなり」だったのか。なぜ、黙っていたのか、それはぽーさんにしかわからない。
ひとりで抱え込まないでほしい
実は私は以前の結婚でこの「知らぬは私ばかりなり」を前の夫にやられたのだ。内容は全然違うけど、周りはみんな知っていて、私だけが知らなかったのだ。
これはかなりキツかった。心が砕けた。
私という存在はまったく頼りにも当てにもされていなかったということ。トラウマかもしれない。
人生を一緒に歩いて行こうとする人間に信頼されていないということはどういうことか。一緒に歩いて行く気がないのだ。キツかった。私よりも周りが知っているという屈辱。ずっとバカにされていたのかと思った。辛かった。
今回ぽーさんがお義母さんの件を隠していたのは(意図的に言わなかったのか)、なぜなのかはわからない。
でも介護で困ったら手を差し伸べてくれる人がいるはずなのだ。私では役に立たないと思ったのか。知られるのが恥ずかしかったのか、それはわからない。
なんにせよ、どんどん、いろんな人や、いろんなところへ相談したらいいと思う。一番身近な人間も、周りにいる人間も知っておきたいだろうし、手助けしたいと思っているはず。いろんな思いやプライドとかあるだろうけど、抱え込まない方がいいと思う。事が大変になってからでは、なぜ相談してくれなかった!?と恨まれますよ。
私だって、たまたま介護の仕事をしていなかったら、警察でお義母さんを責めていたかもしれない、身元引受の書類にサインしながらこれからどうしていいのか途方にくれていたかもしれない、ギャンギャン怒られながら死にたくなったかもしれない。
実際、警察沙汰になっているのにウフフと笑い、アイドルばりに手を振る姿を見れば、これはヤバイと思ったので、お義母さんを責める気にはならなかったけど、警官に「ちゃんと見ててもらわないと困りますよっ!」と言われたときは、どうすればいいんだよと絶望的な気分にはなりました。
きっと、ここでどうしていいのかわからない人も多いんだろうなと思った。警察も役所や地域包括支援センターを紹介するとかしてあげないと、高齢者家族さんは途方に暮れて絶望すると思う。
次の日地域包括支援センターへ電話をして、取りあえず、様子を見に来てくれることになりました。
しばらく続きます。
2020年前半の振り返りと始まった介護のこと
気がつけばブログ放置して半年という時間が過ぎていました。
これを読んでくれている皆さまはいかがお過ごしだったでしょうか。
世界中がコロナに振り回されておりますが、御無事でいらっしゃることをお祈りします。
個人的な振り返り
さてさて、私はブログの更新もせずに去年、年末から、いったい何をしていたのか、社会の流れとともに振り返りってみたいと思います。
2019年12月は打首のライブに行って盛り上がり、そのまま年越しの準備に明け暮れておりました。既に、このとき中国の武漢では原因不明の肺病(のちにコロナと判明)が流行りだしていたようです。
1月、年が明けてコロナの話が社会に漂いだしたころ、長男の結婚式があり、その準備やなんかにバタバタでした。式前日になってしまった顔合わせ、私やぽーさんの貸衣装の手配、ドキドキヒヤヒヤしながらも結婚式は無事に終わり、ホッと一息。参加者の皆様、どなたも感染することなくて本当によかった。準備は息子夫婦がしたのですが本当に良いお式でした。
しかし、世界では23日に中国の武漢市が都市封鎖されたというニュースが伝わりました。
2月に入ると日本でもコロナの話が、ダイアモンドプリンセス号の件で、もはや対岸の火事ではなくなってきて、だんだん大事(おおごと)になってきているさなか、息子夫婦が海外に新婚旅行に行きました。
「これから行ってきます」と電話をもらったのは既に空港。「ええっ!」と驚き、何もこの時期に…!と思いつつも、止めることもできず、心配しながら世界のコロナ感染状況がひどくなっていくのを見守っていました。約10日後、無事に帰ってきたと知らせを受けて、ホッとしました。ホントに心配しました。実は乗った便の時間や現地到着時間や、聞いていた帰国日から、この帰国便だろうと検討をつけて、こっそり、発着状況を確認していました。この帰国から2週間後に出かけた旅行先の国が国境封鎖になったとニュースで知り、この夫婦、何か持ってる!と思いましたよ。ほんと危なかった。帰って来れなくなるとこだった。セーフセーフ。コロナにも感染していませんでした。よかった、よかった。
3月、今年初節句を迎える孫のお雛様の購入をネットで検討していたけど、思うようなものが見つからず、(やっぱり、目で見て選びたい)結局3月に入ってから買いに出かけて、コンパクトなお雛様を購入。高かった…。お雛様とお内裏様だけのシンプルなものでしたが、その二人だけで段飾りが買えちゃうYO!くらいのお値段でした。
今は二人だけでさみしいカンジですが、ネット検索しているときに、最近は屏風だけとか、雪洞だけとかバラバラでお道具が売られているのを見て、毎年お道具が増えていくのも楽しいかもと思っています。
このとき、大阪にはおもちゃや、お雛様、五月人形などを取り扱うお店がたくさんある松屋町(まっちゃまち)というところがあるのですが、ぽーさんの提案で出かけて行ったら、そりゃもう閑散としていてビックリしました。
おそらく松屋町はお正月前から5月くらいまで羽子板破魔弓、節句人形なんかを買いに来る人がたくさんいるはずなのですが、人通りがほんとに少なかったです。
3月半ばになって日本も緊急事態宣言が出て、4月5月はもう外に出ることすらはばかられるような社会の雰囲気に押され、テレビを観て、どうぶつの森をしてお利口にステイホームして過ごしていたら、お義母さんの認知症?発覚でお義母さんの援助生活に。
介護のこと
5月の連休明けくらいから、お義母さんとこへ通う日々です。2週間くらいは毎日、少し落ち着いてきたので1日おきに、そして今は2日おきに通っています。
お義母さんは電車で1時間くらいのところに一人で住んでいます。月に1回ぽーさんが様子を見に行っていました。
お義母さんには、私は年に2~3回、ぽーさんについて行ってほんの10分くらいしか会ったことはなかったのです。それが、このたび、がっつりと一緒に過ごすことになったのですが、元々どんなひとだったのかわからないので、本当のことをしゃべっているのか、認知による作話をされているのかわかりません。ぽーさんも無口な人なので、多くは語りません。やれやれ、これは困ったと思っているところです。
認知かな?おかしいな?が発覚してから、包括センターへ相談して、介護認定をうけました。ただ、これからが大変そうです。
お義母さんはひとりで好きに暮らしたいとおっしゃるのですが・・・。私としては週に1回でいいからデイサービスにお出かけしてほしいと思うのです。
それはデイサービスに行けばお風呂に入ってもらえるし、食事も整ったものをたべてもらえるし、人とおしゃべりもできるから。そう、今はお風呂は入ってないようなのです。シャワーは浴びているようですが、髪の毛はべったりしています。食事はテーブルで摂らずに、ベッドで食べているようでワンプレートで済ませているようなのです。俗にいう生活の質が落ちかけていると思います。
今は突然、身近にやってきた嫁に慣れてもらおうとしているところなので、あまりズカズカと生活に踏み込むこともできず、徐々にお近づきになろうとしているところです。
お義母さんをみているととても女子女子しているひとなので、私にはそんな部分が少ないので、お話があまり合わないのです。だから話の合う同年代のかたとおしゃべりできたらきっと気持ちもなごむだろうし、楽しいと思うのです。
さて、どうやってデイサービスに連れ出すことができるか、考えたみたいと思います。
初めてライブハウスに行った話し3
そして、ライブハウスの中へ
とうとう、番号が呼ばれて、ドキドキしながらドアの中へ。
受付カウンターにはお姉さんがいて、チケットを見せると、「再入場する時はこのスタンプを見せてくださいね」と手の甲にスタンプを押してくれる。ドリンク代600円を払ってプラスチックの札を受け取るとさらに中へ。
中は左手にカウンターが有り、右手にはもうたくさんの人。そりゃそうだ。ニワカとプーの番号は140番代、そう、すでに140人が入っているということだ。
その右手の奥にステージがある。
それだけを、さっと確認して、カウンターで荷物を入れるビニール袋を500円払って受け取った。
おねいさんが「今日はチケット完売です!中がものすごく暑くなりますから、コートは脱いで預けてくださ~い!ヒートテックも脱いでぇぇくださ~い!」と叫んでいる。
コートだけでいいよ~と言うプーから、ついついお母さん根性で「お姉さんが暑くなるって言ってるでしょ!」とセーターも剥ぎとって、2人分袋に突っ込んで、カウンターのお兄さんに渡して預かりの番号を受け取る。
荷物オッケー。
プーがカウンターでドリンク札をコーラと交換してもらっている後ろについて行って、マネしてコーラをお願いする。プーはコーラが好きなのだが、私はそうでもない。炭酸を飲むとしゃっくりが出るのじゃ。コーラを飲みながらよくよく確認すると水と交換している人も。コーラはコップだったから飲み切らないといけないけど、水はペットボトルだったから、慌てて飲まなくてもいい。少しシマッタと思うババア。
ドリンクオッケー。
コップのコーラを一気に飲んだら、ババアはトイレへ行っておく。歳とると近くなるからね。トイレはさほど混んでいなくて、やっぱり、若い人が多いのねと感じる。
トイレオッケー。
これでひとまず、やらなくちゃいけないことはやった!と右側のステージが見える位置へ移動した。
壁際に張りついている人もいるし、前の方は既にギュウギュウ。後ろの方に立って周りをキョロキョロ。後ろの方だけどさすがライブハウス、ステージ近い。5~6メーター?
ただ、チビのババアには(154センチ)オールスタンディングは辛い。ステージに立っている人の肩から上がかろうじて、人の間から見える。
優しい息子が年老いた母に「カーチャン見える?」と気遣ってくれる。本当に優しい子に育ってくれた。涙が出そうだよ、プーだけど。
まぁ、自分も子どもに心配される歳になったってことだなぁ。
いよいよライブが始まった!
この日は『対バン』として『ガガガSP』が出演予定になっていて、最初に登場。『ガガガSP』は神戸出身のパンクロックバンドらしい。
『対バン』というのは、対決バンドとかじゃなくて、共演バンドのこと。へへへ、ちゃんと調べてみた。
そして、始まった瞬間、ザッと人並みが前へ動いた。え?え?と一瞬何が起こったのか分からずに、ビックリしてふり返るとプーも驚いている。別に押されたりしたわけじゃなくて、周りをすり抜けて行ったカンジだった。初めての感覚だった。
おかげで少し周りが動いてステージが見やすくなったが、依然として背伸びして、ボーカルとベースの肩から上が見えるくらいで、ギターとドラムは全く見えない。
それでも、ステージも会場も盛り上がっているので、ババアも一緒に盛り上がる。
楽しい!飛び跳ねて、大声出して、楽しい!振りかえるとプーも楽しそうだ。ノッテやがるぜ。
『ガガガSP』は初めて聴くバンドさんだけど繰り返しのサビの部分を一緒に歌う。すごく耳に残ったのは『線香花火』という曲。よかった。
そして、あっと言う間に40分が終わってしまった。
いよいよ打首獄門同好会
『ガガガSP』が終わって、ステージ入れ替えのために休憩だ。もちろんババアはトイレに。戻るとプーもステージ側から、カウンターの方へ出てきてひと息ついている。
ステージ側へ戻るとさっきとは周りの人がが入れ替わっている。
なんと、ババアの前には壁が4人。みんなおそらく180センチ前後。コレは・・・と思うが、さっきみたいに始まって人がまた動くかなぁと淡い期待を持つ。
始まった!が、思ったほど人は動かず、4枚壁はそのままだ。大澤会長の頭がときおり見える。Junkoさんもたまにチラッと見える。あすかちゃん全然見えない。パワポを操るスタッフさんよく見える。
まぁいい、まぁいい。今は楽しむのじゃ!よく見えなくてもめっちゃ楽しいです。
最初の曲がなんだったか思い出せない。うわぁぁぁ。やっぱり、直ぐメモっておくべきだった。曲順はバラバラですが、思い出す限り。
ライブハウスが『太陽と虎』という所で、コンセプトがmusic Zooということで『上野ZOO』をやってくれた。映し出される会長が若い。
このライブハウスの社長さんが今年亡くなられたということで、お好きだった自分つこっみクマの『シャキッとコーンの歌』を。
そして不謹慎ながらと言いつつ、線香を手向ける、線香に似たもの・・・ということで『デリシャススティック』。
うまい棒が会場で配られるということは聞いていたが、入場時に配るのかと思いきや、ビニール袋に入ったうまい棒が会場の前から回ってきた。マヂか?と思いつつも1本貰って、後ろへ回す。皆んなちゃんと1本取っては回している。皆んな常識のある普通の人だ。
『島国DNA』ではマグロが宙を舞っていた。おおっ!動画で見たヤツやん!マグロが頭上で踊っているが、人の波に流されて行ったり来たり、かろうじて1タッチして、満足。
まあ、そんなこんなで会長のMCをはさみつつ、曲が進んで行くのだが、私の直ぐ前にアベック(今時はカップル、またはカポー、男女2人組のことだね)がいて、私の前にいた女子が何事か彼氏にささやくと、場所を入れ替わった。
どうやらアベックの女子の前には髪の長い女子がいて、ヘドバンするとその髪の毛がバッシバッシと当たるのだ。それで彼氏に代わってもらったらしい。
そして再びのヘドバン。彼氏は前方女子のバッシと叩きつけられる髪の毛を避けるために、前方女子とリズムとタイミングを合わせてヘドバンだ。(いや、よけろよ)
そーしーてー、その後ろのババアは彼氏の反り返りに硬い身体が追いつかない。何度かアタックをくらいながらもヘドバンしたよ。(いや、よけろよ)
でも途中でそっと後退して、よけた。だってヘドバンしたら頭がクラクラしたもの。年寄りはムリは禁物。ぷーをふり返ると笑ってやがったぜ。でも、楽しかった!
ビックリしたのは、お客さんが会場の人の上に乗っていたこと。出演者がステージからダイブしてワーっと運ばれるんじゃなくて、お客さんがどうやって上がったのか、気づけばお客さんの上で回ってる。長男が危ないから前の方に行ってはイケナイといった意味がわかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、終わって一旦引っ込んだ打首獄門同好会だが、会場からアンコールならぬ、「まーつばらっ!」コール。『まつばら』とはお亡くなりになられたライブハウスの社長さんのお名前。
コールに応えて再びステージに現れた会長が「今ね、マツバラコールしたでしょ、ガガガのコザック前田さんがね、まーつばらっ!ってコールする度に、もう死んどるっ!ってつっこむのよ。関西ww」と苦笑していた。
アンコールは『フローネル』だったっけ?よく覚えていない。恐ろしい、どんどん忘れていく。諸君、これが老化だ。
そしてその後
無事にライブも終わって、みんな帰り始める。荷物をもらいにカウンターへ行こうとすると、「荷物は外で受け取ってくださ~い」との声。
いったん、汗をかいた薄着のまま外へ出たら寒い!さむい!さ、む、い~!
ふと、Tシャツ短パン組は凍死せずに無事にお家へ帰れたのだろうか?と心配になる母心。外で荷物を受け取って大急ぎで上着を着て、物販に向かう。
この日は会場が狭いから物販は少し離れた外でやっていた。会長が物販のこたちが寒くてかわいそうとMCで言っていたが、ホンマに吹きっさらしで行われていた。
プーが『働きたくない』タオルを、ニワカは『猫の惑星』Tシャツを購入して家路に着いた。
<この度のライブでわかったこと>
1・Junkoさんには57歳の弟がいて『ガガガSP』のファンだということ。
以前ガガガSPとご一緒した時に、「弟がファンなんです!」とコザック前田さんに言ったら、「弟さんいくつ?」と聞かれたので「3つ下」と答えたそうだ。
Junkoさん曰く「嘘はついてない!」確かに。
2・東日本大震災当日、打首獄門同好会は神戸のこのライブハウスにいたのだそうです。
会長が「ガガガSPのコザック前田さんがMCで、『ライブ前に円陣組んでオーッとやるバンドは長く続かない』って言ってたけど、あの時はさすがにオーッとやりました」と。
3・プーに「トイレヤバかったね~」と同意を求められたが、なんのことやら。どうやら男子トイレにはエロいおねいさんのピンナップが貼ってあったもよう。女子トイレにそんなもん貼ってねーよ。
4・年を取ってからの筋肉痛は2〜3日遅れてやってきて、しかも当分続くということ。
5・歳をとってたって、ライブは楽しいということ。
6・ライブハウスは怖いところじゃないということ。
しかも、なんか距離が近い!大きな会場のコンサートに行ったことはあるけど、物質的な距離だけではなくて、なんだろう、一体感?すごく良かった。
ありがとう、ありがとう。
スタッフさん、ガガガSPさん、打首獄門同好会さん、ライブに来ていたみなさん、長男、長男のお嫁さん、二男、ぽーさん、おかげ様でババアは楽しい時間を過ごせました。
そして、ブログを読んでくれてありがとう 。
ではでは またね(=゚ω゚)ノ
初めてライブハウスに行った話2
出発まで
ところが、ところが、無理やり召喚した二男もライブハウスなんて行ったことないという。まぁ、ね、プーだしね。しょうがないね。おまけに打首獄門同好会もあまり知らないということで、大阪に帰ってきたライブ前日と当日の午前中にいくらかバズった曲をレクチャーした。
当日は、長男からの『前の方には行かないように』との注意を胸に、長男の嫁様から頂いた『島国DNA』Tシャツを着て、ニワカとプーの二人組はいざ、いざ神戸へ向かったのでした。
阪神電車に乗り込み、神戸三ノ宮を目指して、ま~ったりと、
母「ここが尼崎だよ、乗り換えは向かいのホームに止まってる電車の中を通り抜けて行くんだよ」
二「え?なんだって?そんなことして、いいのかい?」
母「へへっ、阪神尼崎駅ではアナウンスでそうしろって言ってくれるんだよ」
ガッタンゴットン
母「おっと、ここが有名な甲子園だよ」
二「もう、通り過ぎたよ」
ガッタンゴットン
などと、親子の久々のふれあいの会話を楽しみながら、でもちょっと緊張しながら電車の旅を楽しんだのでした。
電車の旅を楽しみ過ぎるあまり、マッタリし過ぎてヤル気を削がれそうになるニワカとプーなのでありました。
そして神戸
阪神電車の神戸三ノ宮駅に着いたニワカとプーは、今度はJR三ノ宮駅を目指して移動。駅構内の案内板を頼りに無事JRの駅構内へ。
早く着きすぎたので、ひとまずライブハウスの場所を確認するために行ってみることにした。ライブハウスへ行くにはJRの駅の南側を真っ直ぐ東へ向かえばいいらしい。
どうにかライブハウスの場所を確認したので、ひとまず駅方向へ戻って何か食べようと言うことになりました。
目についた喫茶店へ入ってお茶を呑み、本屋さんで時間をつぶして、そろそろ行こうかとライブハウスを再び目指しました。
いよいよライブハウスへ
もう、陽はとっぷり暮れて、夜風が冷たい。途中、半袖短パンが同じ方向へ歩いていく。そのTシャツと短パンはまさしく『打首獄門同好会』のもの。
12月です。はい。12月3日です。寒いです。おそらく、駅のロッカーに荷物を預けて来たのでしょう。若者恐るべし!
私は事前にホームページで、このライブハウスにはビニール1袋詰め放題でお預かり500円というシステムがあると調べていたので、それを利用しようと思っていました。それでも、長男からの指令で荷物は少なく!と聞いていたので、Tシャツの上にコートと荷物は小さい肩かけに少しにしていました。
やはり、Tシャツ短パン組はさすがに少数派でした。皆さんコートを着ておられる方がほとんどでした。
店の前には少し行列が出来ていました。行列に並んで待っているとほどなくスタッフのお兄さんが現れて、道路の端に寄るように、チケットの順番に呼ぶので10番くらいでの人は前の方へ、チケットとドリンク代600円は直ぐ出せるようにしておくこと等を、行ったり来たりしながら叫んでいました。
言われた通りに、お金とチケットを確認して、ようやく落ち着いて周りを見回すと、あれ?意外にご年配の方がいらっしゃる?少しホッとして待っているとようやく開場です。
スタッフさんが「1番から10番まで前へ来てくださ~い」と、プーといよいよだね~とドキドキしながら、10人ずつ呼ばれるのね~とか考えていたら・・・
「じゃ、次、12番まで来てくださ~い」
って、おいぃぃ、2人づつ?2人ずつなの?
こうして、時間までに全員が中に入れるのか?と、要らぬ心配をしながら待ったのでした。
3へ続きます。
初めてライブハウスに行った話1
行ってきました!
自作手帳の記事が途中ですが、忘れないうちに書いておこうと思います。しばしお付き合いください。
行ってきました!齢56にして初ライブハウス。
いや、コンサートとか、大きな体育館とかには行ったことあったけど、『ライブハウス』は初めて。しかも音楽イベントなんて十年以上いや、二十年?ぶりくらい。
その昔、私の若い頃は『ライブ』って言い方もしてなかった。『コンサート』だったよ。
チケットはチケット売り場に行列したり、わざわざファンクラブに入って、ファンクラブ経由で買ったこともあったけど、インターネットで買うのは初めて。
いろんなことが久々だったり、初めてだったりと緊張しながら行って来たのは『打首獄門同好会』のライブでした。
事の起こり
数年前くらいに長男から面白いバンドがいて、ハマっていると聞いた。その時はふ~んくらいで聞き流していたが、去年だったか今年だったか、ベースのJunkoさんが還暦とネットのニュースで流れた。
長男が言ってたやつか~と改めて検索して、ハマった。歌詞おもしろ~~い、曲調も好みだ~、ライブの映像とか見て楽しそう、いつか行ってみたいなぁと思った。ホント、ほのか~に、心の片隅くらいで、思ってた。
そんな時、当時の職場の同僚が私が仕事場で着ていた娘のお古のTシャツ(ゴールデンボンバー!)を見て、ファンなの?と聞いてきたことがきっかけで、一緒に何か、どこかのバンドのライブに行こうということになった。
そして、なんとちょうど、折も折、獄至十五ツアーの後半予定が出たと長男が教えてくれた!恐る恐る申し込んで、『チケットのご用意できました』メールが届き、なんとチケット2枚を確保できたのである!ラッキー!ラッキー!
が、しかし!私はライブハウスに行ったことが無くて、想像では少しコワいイメージもあり、歳食ってるんで気後れもしたが、それは同年代の同僚も一緒だし、ババァだけど2人いれば大丈夫だろうと考えてた。
ところがどっこい、2日前に元同僚から行けなくなったと連絡がきた。
予定変更の結果
ぽーさんに声をかけるも、平日で、2日前は急すぎてムリとのこと。心当たりに声をかけるも、やっぱりムリ。しょうがないから一人で行こうかと思っていたけど・・・
ピコーン!と頭に閃いた。年末に帰ってくる予定のプーの二男。
母「年末帰って来るんよね?」
二「そのつもりでおりまする」
母「ちょっと早めに帰って来いや」
二「そのつもりで…」
母「明日、帰って来いや」
二「は!?」
かなり渋ったけれど、(そりゃそうだ、母とライブに行きたい息子はおらんやろ)なんとか承諾させて、どうやら長男も声をかけてくれてたようで(チケットもったいない!行けるものならワシが行きたい!)そんなこんなで二人で行くことになりました。
まぁ、一人で行ってもどうにかなったとは思うけど、やっぱり、二人なら心強い。
ここまで、めでたしめでたし、よかったよかった~。
え?イケニエ?何のことかな?
そんなこんなで2に続きます。
来年の手帳は自分が使いやすい物を自作するのだ!その3
気づけばもう12月に入って10日過ぎてしまいました。
11月の終わりに娘と孫が帰ってから、一息ついたら生まれて初めてライブハウスに行くという経験をして、その後、遅れて来た筋肉痛が酷くて、ようよう昨日あたりから「あ痛たたた」と言わなくてもよくなってきました。いや~、楽しかった。
ババアが初めてライブハウスに行った話は、また書きますね。
それよりも、手帳の続きなのだ。もう、来年が見え始めてるし、急がねば。
手帳の中身を考える
さて、前回、手帳の中身をどうしようかと考え、ひとまずカレンダー代わりの月間部分を作ってみた。もう、しごく普通の真っ当なタイプ。
これを開いた時左側にして、右には空白のメモページ。
取りあえず2019年の12月分を手書きで作って使ってみることに。そして、2~3日使った感想は・・・
<良いとこ> あまり予定の無い人間にはちょうど いい
右ページの空白もイロイロ書くのに広く て便利
<悪いところ> 1日の時間の流れが見えない
日記や記録を書くには足りない
う~ん、月間のカレンダーページだけでいいかなと思っていたけど、やっぱりウィークリーや1日のページも必要なんですかねぇ?取りあえず、ウィークリーのページを作って12月中使ってみよう。
見開きで1週間8分割にして月曜から日曜まで。余った1枠はフリースペースに。
1日分の上部に日付と曜日、残りを3分割して午前、午後と何を書こう?わたしのばあいだと晩御飯の献立かな?
手帳の役割
巷のみんなはどんな手帳を、どんな風に使っているのかググると皆さん十人十色で、細かく予定を書き込む人や、おおざっぱな人や、日記代わり、家計簿代わり、みんなそれぞれで面白い。
ここではたと手帳の役割って何だろうと考えてみた。
以前読んだアメリカの主婦の人は手帳に予定管理はモチロン、窓枠のサイズから子どもの服のサイズ、食料品の在庫管理から、全てを手帳に記録してそのスーパーな主婦力で講演会までやってる人だった。ずいぶん昔に読んだ本なので、きっと今彼女の手帳はスマホかタブレットにとって代わっているだろう。
そう、情報だけならスマホで管理できる時代なのにアナログな手帳を持つ意味は何だろう?
スマホの画面を眺めていても、こちらが能動的に働き掛けないと欲しい情報は出てこないけど、ぼんやりと手帳のページをめくっているとハッと閃くことはある。そういうことなんだろうか?
最近レコードを買う人が増えているらしい。CDでも聴けるけれど、ジャケットからレコード盤を取り出して、ちゃんとプレーヤーにのせて、針を落としてという行為が良いのだそうだ。手帳に書くことも同じなのだろうか?
手帳、予定管理、記録・・・ググっているときに目についたのが「夢をかなえる」「目標達成」の言葉。「手帳術」なる言葉も。なるほど、どうやら、手帳はマネージャーでコーチで秘書の役割も果たすのか。
どう暮らしたいのか、どうなりたいのか目標を立てて、その目標を叶えるべく年間の予定をたて、それを月間、週間に振り分けて夢を叶えていこうという。
なるほどなるほど。おばちゃんはこの年まで、日々に振り回されて生きて来たよ。ヤバイね(汗
だって、計画や予定を立てていても、いろんなことで変更になることがあるし、人生なんて自分のせいでなくても、ままならなくなることもあるしね。
・・・う~ん・・・
・・・あー、そうか、そういうことか。計画や予定が崩れても、目標を見失わなければ進路は変わっても、いつかは目標に到達できるのか・・・。
振り返ると自分の人生をちゃんと生きて来たのか?という深~い話になってしまうんだが、親のため、恋人のため、夫のため、子どものため・・・延々と何かのために日々を過ごしてきたような気がする。女性はそういうの多いんじゃないかな?
もっとぐっと戻って、自分のやりたかったこと、なりたかったもの思い出してみよう。そして、今、現在自分のやりたいことも、日々を楽しく暮らせるようにできることも考えてみよう。
今日できなくても、明日、来週、来月、来年できるかもしれない。できなかった原因を探ることで実行しやすくなるかもしれない。そういうことを忘れないために手帳に記録しておくのは大切かもしれない。
手帳の中身に目標ページも入れよう
そうなるとまずは目標のページを作らねば。
目指すところが無いよりあった方がいいからね。今は無くても、日々を大事に過ごすうちに見つかるかもしれないから。「日々を大事に過ごす」とかサラッと書いたけど、日々を大事に過ごすことって難しい。
今の時代は何でも早く、速くなのだ。『迅速』『お待たせしません』の文字はいたるところで見かける。みんな課された仕事をこなすのに必死のパッチでバタバタしている。コレが終わったらアレ。あれが終わったら次。家に帰ったらアレして、コレして、ご飯も食べなくちゃ、お風呂に入らなくちゃ、寝なければ!なんと『やらなければならないこと』が多いのか。
どこかで我に返る時間を意識して取るべきなのかもしれない。手帳を見るとかね。自分がやってきたこと、これからすること、自分が今人生のどこにいるのか、迷子にならないように。
さて、目標のページには目標と、目標達成するためにしていくべきことを書きだせるようにしておくと計画がたてやすいかな。
ググっていると『ウイッシュリストを作ろう』という言葉も出てくる。なるほど、『WISH=願い』とうことか、目標もウイッシュかもしれない。願いは自分で叶えるものだと思う。白馬の王子さまはやって来ないし、コタツの中にいてはなりたい自分にはなれないからね。
1目標(ウイッシュ)1ページで、いつでも書き込めるようにしておくのが良いかも。このページは毎日見れるように最初の方に配置しとこう。
あ、目標が増えてくると一覧で見れる目次ページがあった方が便利かも。何を目標にしたのかわからなくなりそうだからね。年寄りの脳の記憶容量は年々減っていくような気がするし。
さて、それでは作成にとりかかろうと思います。思いのほか手帳作成に時間がかかってます。
次回で完成品をお披露目できたらと思います。
ではではまたね(=゚ω゚)ノ
来年の手帳は自分が使いやすい物を自作するのだ!その2
先ずはどういう手帳が欲しいのか。
イロイロ変更になるとは思うけど、ひとまず、構想を練ってみる。
まずは大きさ。前回も書いたけど、老眼だから小さいのはダメだ。書くのも老化によって手の器用さが失われつつあるようで、小さい細かい字は書きにくいのだ。
かといって、大きければ大きいほど良いというわけではない。だって、あまり大きいと持って歩くのに不便だ。だからA5サイズくらいがいいのかな?サイズに関してはまだ考える余地があるかな。
そして、横開きが良いと思うのである。
なんで、私にとって横開きがいいのかというと、カレンダーに書き込む習慣がついてしまっているからかもしれない。だからマス目が横長なタイプの方が書きやすい。それなら手帳を上下に開けば?と思うが、これだと視線の流れが私にとっては不便なのだ。視線の流れが上下よりも左右の方が見やすい。
次にノートのように綴られているものより、バインダータイプでページの差し替えができるものがいい。失敗したページなんかを無かったことにできるし、毎年使えるページはそのまま残せるから。例えば住所録とかね。
ここまでで、A5サイズの横開きバインダーに決定。
予定のページは左ページにブロックタイプで1ヶ月、右ページにはメモができるように空白を。
1月から12月まで各月ごとに見開きで。
あと住所録のページ。ブログやマンガのアイディアをメモる専用ページがあったらいいかも。
こんなカンジでイメージができた。
下調べをしてみる
インターネットがあってよかった!そう思えるのは調べ物をする時ですな。24時間いつでも質問に応えてくれる。
グーグル先生いつもお世話になってます。ありがたい、ありがたい。
まず、A5の横開きのバインダーをググってみたが、リングタイプのはよくある事務用品の2穴タイプの物しか見当たらない。たぶん、A5の横開き欲しい人は私以外にもいると思うのだが。需要がないのかしらん?
タメイキつきながら、何かないかなぁと『バインダー』で検索していると『バインダー金具』という物を発見!
なんと!金具だけ売っているのね。
おお!あるある!ブログが!そしてやはり!ナカーマ!手帳を自作している人がいる!
なるほどなるほど。みなさんいろいろやり方はあるけど、基本は硬めの芯になるものにバインダー金具を取り付けて、ソフトな皮や布でくるむのですな。
よぉし!おばちゃん東急ハンズに行っちゃうぞー!
行ってみよう!
行って来たよ、東急ハンズ。
都会のいいところはこうして、すぐにブツが手に入るところですな。
梅田の大丸の文具売り場で、しばらくウロウロ探したが、バインダー金具は見つからない。本屋さんみたく検索機械があればいいのにと思いながら、店員さんに聞くとすぐ案内してくれました。
皮製品のところにありました!大きさは長短2種類しかなくて、A5サイズの短い方の辺に納まる大きさの短い13㎝の6リングに。留め具は幸い初心者さんに優しいネジ式だった。ラッキー!
今度は金具を取り付ける芯になるような固いもの・・・これはプラスチックのファイルを切って使っている人や厚紙を使う人とか、様々だったので、厚紙を使うことにして、ウロウロした結果、イラストレーションボードなるものを買いました。厚さは1ミリなので私でもなんとかなりそう。
さっそく家に帰って作製開始。
やってみよう!
まずは厚紙のイラストレーションボードに鉛筆でサイズを書き込んでカッターで切る。
A5の縦(短い方)は15㎝だけど表紙にするから少し大きめにしないと、中のページの端が傷むので5㎜くらいの余裕を上下につけて16㎝で。
横(長い方)は見出し用のタブをつけるから1cm多めと、リングファイルの立ち上がり分1cmとして2㎝多めで23㎝として、表裏で2枚用意した。
そして背表紙は金具のサイズを実寸で測って2㎝幅で長さは16㎝で1枚。この背表紙には金具を載せて、ネジ穴部分に印をつけて穴を開けておく。
これを用意した布に・・・え・・・布用意してない。
まぁ、家にある余り布のなかでも気に入ってるやつで。後で後悔しそうだけど、やり直しがきくので大丈夫、大丈夫。
用意した布の上に間は5mm開けて載せ、周りは1cm(のりしろ)で切る。
厚紙に糊(ボンド)を塗って布の上に載せ、角部分は2mm残して45度の斜めで切る。
上下ののりしろで包むように貼って、次に左右を貼る。
内側にも紙(または布)を貼って、金具を取り付ければできあがり!
紙に塗った糊が乾かないうちにイロイロ動かしまくったので一部破れてしまいましたが、 あら?以外に簡単にできてしまった。
見て見て~!
バインダー!
大きさは市販のA5のバインダーより、少しスリムで、少し長い。下に少し見えているのが市販のA5 バインダー。
嬉しくてまだ内側の紙が乾かないうちにパタパタしたら、金具周りが破れてしまったわい・・・トホホ。
でも、ダイジヨーブ!金具を外して、破れたところを製本テープで補修!
内側も好みの布で貼ればもっと素敵だったかな。
内側の紙もすっかり乾いて、これでオケオケ。
さぁ!次は一番肝心の中身だよ~。
でも、疲れたので続きは次回へ~。
ではでは またね(=゚ω゚)ノ
来年の手帳は自分が使いやすいものを自作するのだ!その1
老化する脳の補助としての手帳を持つ
バタバタと生活していたら、いつのまにか12月が目の前に来ている。
今年はいろいろあったなぁと感慨にふけっていたら、結膜炎になった。
目の前に迫った12月が目に入ったのかもしれない。
本当は、周りには手を洗えと口を酸っぱくしていうくせに、自分の手の衛生管理を怠ったせいだとは思う。
手洗い励行。
市販の抗菌目薬を注していたが治らないので、眼科へ行ったら「出血している」と言われた。2種類の目薬を注して1週間。
ようやく治って来たと思ったら、今度は全身が痛い。
まだ年末大掃除はやってないけど、事前に筋肉痛かしら?とか思っていたら熱が出た。
今度は早めに病院へ行って、1日寝たら治った。
寝ているときに今年を振りかえろうと手帳を開いたら、6月で書き込みは終わっていた。半年坊主だった。三日坊主よりはエライ。いやいや、目くそ鼻くそだわな。
そんなわけで来年こそは1年の指針となり日々の記録となる手帳を使おうと思った。
そして、コーヒーを片手にその日の予定を確認するエグゼクティブなモーニングを迎えたい。
そんな生活を送るには、まず、なぜ毎年手帳を途中で使わなくなるのか?を考えるに、使いにくいからなのだと思った。
いやいや、けっして手帳屋さんのせいにしようとは思っておりません。だって、手帳を使わなくなってから、どうしていたのかと振り返ると、予定は壁のカレンダーに記入、メモはそこら辺の紙か、付箋か、アイフォンに。
結局イベントの少ない、変化に乏しい生活を送っているからなのだが、今年を振り返るとやりたかったことがいっぱい、こぼれ落ちてしまっているのだ。
まあ、つまり年の初めに考えていた予定がほぼ進んでいないのである。
若いころは物覚えは今よりは良かったし、手帳が無くてもおおよそ、次は何をしなくちゃいけないかは把握できていた。
しかし歳を重ねた昨今は、忘れていることが増えてきたし、頭の中だけであれやこれやを、こなしていくための時間のやりくりができなくなってきている。
人生が残り少なくなってきているのに、このままでは「あかん」。
計画をたて、少しでもやりたいことをやっていきたい。 物忘れしがちな老いて来た脳みその介助者としての手帳を持たねば。
使いにくいから使わなくなる?
毎年、年末になると文房具やさんから本屋さん、雑貨屋さんまで手帳が所狭しと並べられ、どれにしようかと選ぶのはとてもワクワクして楽しい。
が、しかし、いつも迷うのはカワイイ絵柄ではなくて、大きさや書き込み欄とか実用の部分なのだ。
小さすぎても、大きすぎても、ページが少なすぎても多すぎても使いにくい。
3匹のクマのお話のように、それぞれにピッタリ合うサイズや容量が、1年使い続けるための最低条件だろうと思う。
実は去年、自作手帳を作りかけて断念した。
理由はアナログでカレンダー部分を作るのに疲れたのだ。
定規で線を引いて、月曜日から日曜日までを書き込み、祝祭日を確認すること12か月分。
6月で心折れた。そう、だから半年坊主だったのですよ。6月分まで作って、残りは後で…はい、「後でやろうはヴぁか野郎」ですね。
結局、作らなくて、カレンダー書き込みへと戻っていったわけです。
使いにくいからではなく、作りにくいから続かなかったという。なんだ、それ?
いってみよう!やってみよう!
そんなわけで今回はパソコンで作成だ。エクセルでさくっと12か月分!
大きさは老眼でも読みやすい、書き込みやすいA5サイズで。そりゃA4とかB4とか大きければ大きいほど見やすいけれど、持ち運ぶのには不便だからね。
それに、実は、我が家にはプリンターが無い。そういうわけでコンビニプリントを利用するのだが、コンビニプリントはA4サイズからだから、1枚に2か月分プリントして半分に切ればA5サイズ。プリント代も半分。
エクセルさんで枠を作って、縦横合わせて日付を打ち込んで、印刷プレビュー確認して、ひとまず1月、2月分を試しに印刷。
おおっと、枠線がずれてしまったけど、ドンマイ。十分使えます。何しろ土日をどうしても青と赤にしたかったのでカラーを選んだので、1まい60円!もったいない!
これを半分に切って端にバインダーで閉じるための穴を開けます。これで1ヶ月分30円。
コレで、1月分と2月分の手帳のページのできあがり!
3月分以降は少し位置を修正して、せっかくカラーだから何かイラストを描いてレイアウトしてみよう。見るのが楽しい描くのが楽しいと手帳も活用されるに違いない。
同じ轍を踏んではいけない
と、ここまで書いて、作って、ふと本当はA5サイズの横長が良かったんだって…って思いだした。
そうなのだ、実は今年前半に使っていた手帳はバインダーの形に合わせてA5の縦型だったから、月間カレンダー式では横幅が狭すぎて書きにくかったのだ。
かといって、手帳を見開きに使うにはどうも、真ん中のリング部分によって1週間が分断されている感があってイヤだったから片面で月間カレンダーを作っていたのだった。(ね?上のプリントされた縦A5の画像を見てもらうと書く欄が細長くて描きにくそうでしょ?)
ほらね、もうすっかり去年悩んだこと忘れてるんですよ。オソロシイ…。どうも、こんなカンジで忘れてしまって、二度手間になって、いろんなことがさらにめんどくさくなりがち。これを防ぐためにも手帳にメモるべき。
やれやれ、こうなったら、とことんこだわって作ってみることにしよう。今、あるものに合わせるんじゃなくて、最初から欲しいものを作ればいいのだった。去年は手元にあるバインダーに合わせようとしたのがダメだったのだ。
自分が手に取って、見るのが、書き込むのが楽しくなる手帳を作ろう!
どうも年を取ると頭は固く、視野は狭くなっていく。こうでなければならない!なんてことは普通の生活にはあんまり無い。自由でいいのだ。
そんなこんなで仕切り直して、横型A5サイズのマイ手帳を作ることにしました。
そんなわけで続きは次回に。
ではでは(=゚ω゚)ノ
『お料理しましょう』の思い出
10月になって娘と孫がやってきて、日々があっという間に過ぎていきます。少々振り回され気味なきーちゃんです。
日々振り回されてはいるものの、頭の中ではいろいろなことを考えています。あれやら、これやら、いろんなことを思い出したりします。
娘と孫を見ていて、そういえば、子どもを持つ前に母親になったら一緒におそろいのエプロンをしてお菓子なんぞ作りたいなぁと思っていたことを思い出しました。
そして、子どもの頃に読んだ日本放送協会出版の『お料理しましょう』を思い出して図書館で借りてきました。
全4巻
1巻は王馬煕純先生
2巻は飯田深雪先生
3巻は土井勝先生
4巻は江上トミ先生
挿絵は全巻川本哲夫さん
なつかしい!当時、これを眺めてはよだれを垂らしながら作るところを想像していました。
実際には1巻のかに玉、ミルクデザート、3巻のみたらし団子とわらびもち、4巻のカスタードプディングくらいしか作りませんでした。わらびもちはわらび粉が当時売っていなくて、祖母が近所の和菓子屋さんから分けてもらってきてくれました。おばあちゃん、ありがとう。
子供向けの料理絵本ですが、わかりやすくて、挿絵も可愛くて、夢中になって眺めていました。今はもう絶版になっていますが、是非どこかで復刻してほしいと思ったりします。
そういうわけで『お料理しましょう』へのオマージュとして私もレシピをひとつ描いてみようと思っていましたが、しかし、いかんせん、なんだかんだと日々の家事が忙しいうえに、ツイッターできのこマンガを描いてみたりといろんなことに手を出し過ぎて、時間配分が上手くいきません。このブログもココまで書いて放置状態でした。
子育ての主役の娘がいるにもかかわらず、サポートだけでヘロヘロ状態なのは年のせい?
子どもの頃は本を読むのが好きだったので、当然、食いしん坊の私はお話の中に出てくる料理にひきつけられていました。
皆さんもご存知の『ぐりとぐら』のケーキはもちろん、『やかまし村のこどもたち』のソーセージやさくらんぼ、『長靴下のピッピ』のしょうがクッキーとか。最近は再現レシピとかいろんな本が出ていますね。みなさんも『美味しそう!』と思っていたのね~と嬉しくなります。
母が福音館の『こどものとも』を毎月買ってくれていたので、届く絵本に出てくるものはみんな食べたかったです。『ぐるんぱのようちえん』の特大ビスケットとか、『たろうのおでかけ』や『ゆうちゃんのみきさーしゃ』のアイスクリームとか、ね。
孫の存在は自分自身の子どもの頃のことを、たくさん思い出させてくれます。
子どもができたら一緒におそろいのエプロンをつけてクッキーやお菓子作りがしたいと思っていました。しかし、現実は長男、二男と連続の子育てにふりまわされ、末っ子の娘が生まれてからは橋本病で青息吐息で、全然実現しませんでした。
娘と孫は12月には帰ってしまいますから(他県)、どうやらこれからも実現は不可能なようです。
せめて、よく食べてくれる授乳中の娘に美味しいものをと、ふだんは適当に作っていた料理を、プロのレシピを参考にきちんと作ってみたりしています。
最近、遅ればせながら『飯島奈美』さんのレシピにハマっていまして、図書館で本を借りて参考にさせてもらっています。
プロの料理研究家はたくさんいて、レシピもそれぞれだけど、私にとって彼女のレシピは美味しい!きっと味の嗜好が似ているのでしょう。
しばらくはせっせとレシピを見ながら料理を作って過ごすことになりそうです。
ではでは、生存報告まで。
大阪市福島区喫茶「モクセイ」に行ってきました
ぽーさんと晩酌用の焼酎を買いにくディスカウントストアに行く途中にずっと気になっていたお店がありました。
小さな看板に「モクセイ」と書かれた喫茶店。
ね?とっても気になるお店でしょ?
ぽーさんを何度か「入って行こうよ」と誘ってみましたが、「いいよ、また今度」と断られていました。
今日は娘と孫との散歩の途中、通りかかって「入ってみる?」と声をかけるとモチロンOK。
で、ようやく念願かなって行ってきました。
10時30分の開店と同時だったので、お客は私たちだけでした。店内は落ち着いた雰囲気。
入り口を入ってすぐに畳席が二つ分。
靴を脱いであがると琉球畳?が敷かれていて、低い小さい机と色とりどりの座布団がカワイイ。
奥には二人掛けのテーブル席が3つと、さらに奥には小さなレジとケーキのショーケースとキッチンが見える。
「写真撮ってもいいですか?」と聞くと「いいですよ」とのお返事。
メニューはコチラ。
ちょっと悩んで、チャイとミックスジュースにしました。注文したものが来るまでお店を観察。
畳席の壁際には手作りっぽい棚が。本やおもちゃが納められています。子どもの絵も飾られていて、ホッとする空間。
外を眺めると雀がやって来ていました。
娘と畳でくつろいでいるとミックスジュースとチャイがやってきました。
この日は暑かったので、チャイはアイスを選んだので氷が入っていますが、全然薄くなくて、スパイスはきつくなく、優しい味で飲みやすかったです。
モチロン、交換してそれぞれ味見をしました。
ミックスジュースは濃厚ですが、さっぱりした甘さでこれもとても美味しかったです。
この日は工事の音が響いていましたが、ず~っと居たくなるような静かな雰囲気でした。
途中でケーキを買いにお客さんがひとり来られました。
そこで、私たちも帰りにぽーさんへ『リンゴのタルト』、自分たちようにフルーツの入ったパウンドケーキを二きれ買って帰りました。
フルーツの入ったパウンドケーキはドライフルーツとクルミが小さめに刻まれて入っていて美味しかったです。ぽーさんにリンゴのタルトの感想は聞いていませんが、ペロリと食べたとこをみると美味しかったのでしょう。次は私もリンゴのタルトを食べてみたいと思います。ショーケースには他にもプリンやチョコレートのケーキが並んでいましたから、ぼちぼちと通って制覇したいと思います。
隠れ家的な静かなお店でした。モクセイとカタカナで書かれているので、『木犀』なのか『木星』なのか『木製』なのかはいつか聞いてみたいと思います。恥ずかしいので、10回くらい通ったら聞けるかな?
ではでは
またね(=゚ω゚)ノ